ピカソの人生を詳しく解説するよ!たどり着いた真理は意外なものだった

ピカソ 人生 解説 ピカソ
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ピカソの本名がなぜ長いのか、について調べているうちにピカソの人生についても知る機会となりました。こちらがそのときにまとめたものです。参考にどうぞ。

ピカソの本名を大特集!なぜ長いかからその由来まで一発チェック
ピカソの本名についてあれこれ特集しています。フルネームは何か、なぜ長いのか、その意味や由来をふるさとであるスペインの文化を元に紐ほどき、一発で頭に入る形にしていますのでぜひぜひチェックして見てくださいね。

ピカソについては、ゲルニカという作品と顔の中にまた違う顔があったり、実際に見た感じの風景画や人物画とは違う絵をたくさん描いているなあというぐらいの認識しかありませんでした。

今回、ピカソの人生について知ると、なぜあのような絵を描くようになったのか、青の時代、バラの時代とは何なのかもよく理解することが出来て、ピカソの絵をほんの少し理解できた気がしました

ピカソの人生について語るにあたって、ピカソの周りの女性については多くのエピソードがあり、絵の影響もたくさんあります。

しかし今回は、女性についてはあまり触れずに作品を中心にピカソの人生を語りたいと思います。

それでは一緒にみて行きましょう!

ピカソの人生を知ると、ピカソの絵を見る目が変わるかも!
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ピカソの人生ってどんなものだったの?

ピカソの人生について、ザックリと説明します。

・1881年スペインのマラガで誕生
10歳の頃父親から絵を習い始める
13歳の頃、絵のものすごい才能を父に驚かれる
14歳の頃、バルセロナへ引っ越し。美術学校へ入学。
16歳の頃、「科学と慈愛」を描きスペインで数々の賞を取る。
・本格的に絵の勉強をするためにマドリードの美術学校に入学。
・親友カルロス・カサジェマスと出会う
青の時代
セザンヌの絵に出会う
カサジェマスの自殺
この頃から3年もの間、描く絵は青い色で包まれる
バラ色の時代
  23歳の頃、フェルナンド・オリヴィエと出会う
24歳頃から絵は明るさを取り戻していく・一枚の大きな絵「アヴィニヨンの娘たちの誕生」を完成させる
自分自身の力で新しい美しさを作り出す・27歳の頃、画家マチスが「まるでキューブのような絵だ」と発言。キュビズムの誕生。

・スペインのゲルニカという町が破壊させ、激しい怒りを表現した「ゲルニカ」を発表。

・晩年。最後まで絵への情熱を失わずに追求。
90歳。自画像を発表。
・1973年南フランスのムージャンで息を引き取る

ピカソの人生について詳しく語るよ!

ピカソ 人生 解説

前章でピカソの人生の大きな流れを知って頂きました。ここでは更に詳しく説明をしていきたいと思います。

今までピカソの絵は「ゲルニカ」しか知りませんでしたがたくさんの作品があり、どういう背景があって描いたのかを知ると、またピカソの絵を見てみたいなって思いました。

ピカソの様々なエピソードを知ることで、今後ピカソの絵の見方が変わるかもしれませんね。

ピカソの誕生

1881年10月25日にスペインの南の海岸にあるマラガで誕生しました。マラガは闘牛でよく知られた町です。

小さい頃、絵の先生をしていた父親によく闘牛を見に連れてきてもらっていました。

8歳のとき、闘牛の絵を描いています。今まで残っている絵の中で一番古いものです。

作品(闘牛と6羽の鳩 1892年 バルセロナ ピカソ美術館)

ピカソ10歳の頃

父より絵を習い始めます。どんどん絵の技術を身につけていきます。しかし学校の勉強はからっきしダメだったそうです。

そのことで父がピカソを叱ったりしなかたったみたいですね。

ピカソは絵を描くこと以外には興味をもたなくて、学校へ行くのも嫌がっていたそうですね。父は、そんなピカソに鳩を一羽色鉛筆を何本かもたせて、ようやく学校へ行かせたほどでした。

ピカソは絵の才能はあったけれども、学校の勉強は全然ダメだったんだねえ

ピカソ13歳の頃

ピカソはいつも父が絵を描く手伝いをしていました。このときもいつものように父の描いた絵の仕上げを手伝っていました。

その絵は、家から見える広場にあつまっている鳩をかいたものでした。この絵を見て、父はピカソの才能に改めて驚き、

私は今日でもう絵をかくことをやめるよ

と言い、自分の持っていた絵の道具をすべてピカソに与えました。

絵の先生なのに、絵の道具をすべて息子に渡すなんてどんな気持ちだったのだろうね

作品(鳩を抱く子供 1901年 ロンドン ナショナル・ギャラリー)

ピカソ14歳の頃

ピカソが14歳になったとき、一家はバルセロナへ引っ越しをしました。ここで父の勤める美術学校に入学することになります。

ピカソは入学試験を受けるのですが、そこでビックリエピソードが。

他の生徒が1ヶ月かかって仕上げる入学試験の絵をわずか1日で仕上げてしまったのです。

先生たちを驚かせてしまいます。そりゃ、ビックリしますよね~。

当時ピカソは中学生でしたが高校生と一緒に勉強することになりました。

このときすでに才能が溢れていたのでしょうね。

ピカソ15歳、16歳の頃

この頃に描いた母のパステル画は今も残っています。

作品(母の肖像 1896年 バルセロナ ピカソ美術館)

ピカソが16歳のときに描いた「科学と慈愛」は、幼くして亡くなった妹コンチータを偲んで描いたと言われています。

この絵の左側にお医者さんは男性なのですが、なんと父親をモデルにしているのです。絵に父親を描くなんて、父子関係は悪くはなかったことがこれからもわかりますよね。

この絵はスペインで数々の賞を取り、ピカソが画家としてはじめて認められた記念すべき絵画です。

右下の画像が「科学と慈愛」です。

作品(科学と慈愛 1987年 バルセロナ ピカソ美術館)

本格的に絵を学ぶ

ピカソ 絵を描く
ピカソは本格的に勉強をするためにマドリードの美術学校に入学しました。

しかしピカソはマドリードに出てきたものの、学校には行かずそこにあるプラド美術館にばかり通っていました。

「本当の先生は、学校にではなく美術館にいる」

ピカソはそう感じたそうです。

美術学校での勉強がどんなものかはわかりませんが、ピカソにとっては退屈だったのでしょうね。

それに怒った父はピカソにお金を送るのを止めてしまいます。

そりゃそうだよね。学校に行くためにお金を送っていたのに学校に行っていないのだから。父親の行動はわかる気もするな。

そのためピカソは苦しい生活をしなくてはなりませんでした。ピカソはバルセロナに戻り、カルロス・カサジェマスという画家と親しくなります。

以後、親友となりピカソにとっては大切な人となります。

「4匹の猫」と言う名のカフェで、カサジェマスとともに集まっていた画家、彫刻家、音楽家たちと芸術について熱心に語り合いました。

青の時代

19歳になったピカソは、親友のカサジェマスと一緒に芸術の都パリへ向かいます。

ここでセザンヌの絵に出会います

「セザンヌは僕の先生だった。何年もの間、僕はセザンヌの絵を研究したものだ」

のちにピカソは語っています。

20歳になったピカソは、パリの人々の暮らしを絵に描き初めて個展を開くことに成功しました。

順調に進むかのようにみえたピカソですが、悲しい出来事が起こります。なんと親友のカサジェマスがわずか20歳で自殺してしまったのです。

親友であり、芸術のことも話し合え、一緒にパリに出てきた親友のカサジェマスが…。

ピカソの心は悲しみに襲われました。

それから3年もの間、ピカソの描く絵はすべてまるで深い悲しみをあらわすように青い色で包まれていました。

このころのピカソの作品をピカソの「青の時代」と呼んでいます。

作品(カサジェマスの埋葬 1901年 パリ市立近代美術館)
(人生 1903年 オハイオ クリーブランド美術館)
(悲劇 1903年 ワシントン ナショナル・ギャラリー)

「人生」「悲劇」ともに青い絵です。まさしく青の時代。

バラ色の時代

23歳になったピカソはある日、美しい女性に出会います。彼女の名前はフェルナンド・オリヴィエ、22歳でした。

オリヴィエはピカソの絵のモデルをつとめ、ピカソは愛をこめて彼女を描きました。こうして24歳のころからピカソの絵はしだいに明るさを取り戻してきます。

このころの絵をピカソの「バラ色の時代」と呼んでいます。

好きな人の存在って気持ちや心を明るく前向きに変える力があるんだねえ。

「アヴィニヨンの娘たち」の誕生

1907年7月。何百回という下書きを繰り返したのち、一枚の大きな絵を完成させました。

最も尊敬していたセザンヌの絵をヒントにアフリカの黒人彫刻のイメージを重ねて描かれたものです。

この絵はピカソの大きな転換期とも言うべき作品

ピカソはそれまで長い間美しいと信じられていたものを見事に壊し、自分自身の力で新しい美しさを作り出し、それを世の中に示してみせたのですから。

しかし当時はその新しさを理解できない人も多かったので、それから9年もの間、ピカソのアトリエの壁に裏返しにされたまま立てかけられていたということです。

このエピソードは、ピカソの絵がかなり先をいっていたことがわかるものですよね。

あの有名な絵がアトリエの壁に9年もの間立てかけられていたなんて。しかも裏返しに!

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キュビズムの誕生

ピカソ27歳の頃、友人ブラックと描いていた絵は、物や人をバラバラに分解し、点と線を使ってキャンパスの上でそれを新たに作り直したかのように見えます。

画家で良きライバルであったマチスが

まるでキューブのような絵だ

と言ったことから、ブラックやピカソの用いたこの手法を「キュビズム」と呼ばれるようになります。

ピカソのライバルの画家マチスが「キュビズム」という言葉の元だったんだね

このころ、ピカソの絵を見て

「何を描いているのかさっぱりわからない」

という人たちに、彼はこんなことを言っています。

「人はなぜ絵画を理解したがるのだろう。誰も小鳥の歌を理解しようとは思わない。草木や花を理解しようとせずに愛せるのに、なぜ絵画となると人々は理解したがるのだろう

確かに小鳥の歌は理解しなくてもキレイな歌声だよね。このピカソの言葉って本質なんだろうね。

世間にも認められて絵も高く売れるようになったピカソですが、更に新しい描き方をどんどん取り入れて自分自身の芸術の世界を築いていきます。

ページをめくるようにピカソの絵は時とともに変わってゆきます。

「三人の楽士」という絵にもピカソの新しい絵の描き方がよくあらわれています。

作品(三人の楽士 1921年 フィラデルフィア美術館)

戦争への怒り

ピカソが生きていた時代は、平和な時代ではありませんでした。

1936年にはスペインでも戦争が起こり、ゲルニカという小さな町がめちゃくちゃに破壊されてしまいます。

ピカソが56歳のときに描かれた「ゲルニカ」という作品は、おそろしい戦争に反対するピカソの激しい怒りがよくあらわれています。

この作品は徳島県鳴門市にある大塚美術館にレプリカが展示されていて、僕も見に行ったことがあるよ。


作品(ゲルニカ 1937年 マドリード ソフィア王妃芸術センター)

晩年

亡くなる数年前、子供の絵の展覧会を見た老齢のピカソは

「この年頃には、私はルネッサンスの天才たちのように正確に上手に絵を描くことが出来た。でも、この子供たちのように描けるようになるには一生かかった

と語っています。

ピカソがこんな真理にたどり着くなんて本当に意外だねえ

90歳のピカソが描いていたのは、自分自身の姿でした。

「僕はこれまでやってきたものとは似ていない、何かを発見したような気がするよ」

と語っています。

この世を去る直前まで絵に対する情熱を燃やし続けたピカソ。

1973年4月8日に南フランスのムージャンという町で静かに息を引き取りました。

最後にも発見があったんだね。最後まで絵への情熱を失わなかったのがスゴイなと思ったよ。

作品(自画像 1972年 東京 個人蔵)

まとめ

ピカソの人生についてまとめてみました。幼い頃から才能を発揮し、それは絵の先生である父親が絵を描くのを止めてしまうほどのものでした。

その後も青の時代、バラの時代の作品、ゲルニカ、最後の方では自画像という作品も出しています。

絵についてその時代その時代を取り入れて新しいものにどんどん挑戦する。

最後の最後まで絵への情熱を失わなかったのは、ピカソのスゴイところだと思いました。

亡くなる数年前に語った言葉、

この子供たちのように描けるようになるには一生かかった

これはピカソの絵を追求していってたどり着いたものだったのでしょうか? 謎のような真理のような深い言葉ですね。

ピカソの本名についてのこともまとめていますので、そちらも覗いてみて下さいね。

ピカソの本名を大特集!なぜ長いかからその由来まで一発チェック
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